執着をやめる
pyoです。
久しぶりにスピリチュアルっつぅか、内面的な話。。。かな。
カテゴリーは「解放への道」で。
わたしはこんな目にあった、
こんな扱いされた、
どうせこうゆうことになるんだよな、
それはあの人のせい
あの組織のせい
あの商品のせい
あの国のせい・・・?
自分の人生のさまざまな事を、「◯◯のせい」にして、
怒り、憎しみ、とにかく苦しみまくり。
そこからどうやったら脱出できるかと、
地獄からの救出を待って待って、垂れてくる蜘蛛の糸を待って・・・。
そして、やっと掴んだ蜘蛛の糸は、戦っているうちに千切れてしまう。
地獄の亡者のなかにまた落ちていく・・・。
のは、簡単に、立ち上がってドア開けて、はい、天国の幸せ行きってコースがあるんですよ。
ところがね。
これ、自分の中にある「執着」という
「~のせい」とか、「~であるべき」とか、
とにかくもうべっとりとくっついて離れない、
自分の中の内面の固定観念を捨て去ることをしないと、
ドアも出口も見つからない。
「蜘蛛の糸の向こうにいるお前に何がわかる!この苦しみを!」
って、わかりますよー。そこ、抜けてきたんですから。
もう解けたパズルのようなもので
抜けちゃったら戻らないし、戻れないし。答え分かるから。
光の向こうに行きたいのならね。
自分が人生の中で抱え込んできた、全ての定義を
一度全て捨て去ってみることです。
そう。
苦しみの定義を、後生大事に抱きかかえているのは
苦しんでいる本人でしかないんですから。
自分を、そういう扱いされる人だって定義してるのは
他ならない自分自身なんだから。
捨てたらどうなる?
地獄のドアをあけて、向こう側に立っている自分に気づきますよ。
いえ、自分は一歩も動いてない気がするのに
周りの景色が一変したような、そんな感じで光の中にいる自分に気づきます。
いやいや、そこで大慌てして影に逃げないでいいから。
自分を信頼することです。
光を浴びていいんだ、って自分を赦すんです。
いやさ、本当に手放してたらそれ自然に到達します。
光のもとで生きている人なんだ、って自分自身の定義を変えるだけ。それだけです。
『針の穴を抜ける』って、つまりはそういうことです。
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