2013年10月31日
「悔しい」を認める2
おはようございます、pyoです。
「「悔しい」を認める」の続きです。
子供の頃、大人に言われてきょとんとしちゃう事がありました。
「それじゃロクな大人になれないよ」と注意されるとか
「あんたいいお嫁さんになるよ~」とかとか。
ロクナオトナってのを知らないし。なにそれ?
だいたい、私自身がそこを目指しているのかどうかも知らないのに
なぜか、大人たちには当たり前に決めつけられてしまう。
いま思うとこういう感覚でしたね。(^。^)
でも、そこまできちんと思考がまとまったわけじゃなくて、
ただ、何いってんだ?と首をかしげ、
そして「ロクナオトナ」ってのにならなきゃいけないようだ、と受け入れる。
ま、そんな事の繰り返しだった気がします。
ちなみに、『イイオヨメサン』ってのも、美味しいものかどうかも知らないのに、
女の子だからそこに向かっている、と決めつけられてたようで。
もっとも私の1歳の記念写真は男の子の格好してるし
幼児の頃、父は私にミニカーと二丁拳銃の玩具をあたえていたそうな。(^^;;;好きでした、こういう玩具。
その内「あんたって、こういう性格だから」「あんたはこれが似合うから」「あんた、これが好きでしょ」と
本人の嗜好や性格は成長するにつれて変化していくってのを私自身は感じていたにもかかわらず、
なぜか周りの大人たちと姉たちは決めつけてくれてたような気もします。
で、それをただ受け入れて成長していったら。
「自分」が、判らなくなりました。
何が好きで、何を考え、何を言葉にするのか。
どう世の中を見て、どう人のことをみて、どう受け止めているのか。
そんな事よりも
何が好きであればいいのか。
何を考え、何を言葉としてクチにするのがいいのか。
どう世の中を見ればいいのか。
どう人のことをみて、どう受け止めることがいいことなのか。
そんな「定義」だけで物事を受け止めなければならない。
その路線から外れてはならない。
それが「真面目」で「いいこと」だと思い込みました。
私は、私という人物を知らない人になってたんです。
今振り返ると、その路線がいきずまったのが
一番 肉体とマブイが分離しかけてた、
つまりよく幽体離脱しちゃってたのが10代後半から20代前半。
もしかしたら性格分裂状態だったかも。
かなり怒りっぽかったですよ~。
「生きることは戦うことだ」と本気で考えてました。
だって「定義」に当てはまらないことばかりですものね、生きるって。
そんな私を「自分」に最初に戻してくれたのが、主人でした。
10年ほどかけて私が「私」を取り戻していった結果。
実家はみんな異口同音にこういいました。
「あんたってこんな性格だったの?!(@o@)!!」
はい。
今の私は誰かに定義された自分ではありません。σ(^^)
自然体で生きること、
つまり自分がどう考え、どう受け止めるかは
自分の深い所から感じるままに。
「何も考えてないな。(・_・)」
って、よく主人につっこまれますけどね。^^;
さて、本題の「悔しいを認める」に戻って。
この時、「大人の目線」で過去の自分に声をかけてあげるわけですが。
どういう言葉なら伝わるかな?
と考えるにあたっては、「その時の自分の気持ち」にフォーカスしてみてください。
分析する前に、まず、感じる。
「ああ、私、周りにこう理解してほしかったんだ。だからあんな態度をとったんだ」
と、感じることができたら、
どうすれば気持ちがおさまるのか、自分でわかるはずですよ~。
長い年月の間に殺し続けてきた自分の感情を、
生き返らせてくださいね。
ちなみに。
感情は、理屈で応えても
感情と感情のキャッチボールにはなりません~。
理屈ってつまりは、「こうしたら、こうなるよ」って未来を話すことですね。
感情は「今」にあるのに、今を無視して未来への理屈だけ語ったって、
いまの感情の解消にはならないっしょ?
「「悔しい」を認める」の続きです。
子供の頃、大人に言われてきょとんとしちゃう事がありました。
「それじゃロクな大人になれないよ」と注意されるとか
「あんたいいお嫁さんになるよ~」とかとか。
ロクナオトナってのを知らないし。なにそれ?
だいたい、私自身がそこを目指しているのかどうかも知らないのに
なぜか、大人たちには当たり前に決めつけられてしまう。
いま思うとこういう感覚でしたね。(^。^)
でも、そこまできちんと思考がまとまったわけじゃなくて、
ただ、何いってんだ?と首をかしげ、
そして「ロクナオトナ」ってのにならなきゃいけないようだ、と受け入れる。
ま、そんな事の繰り返しだった気がします。
ちなみに、『イイオヨメサン』ってのも、美味しいものかどうかも知らないのに、
女の子だからそこに向かっている、と決めつけられてたようで。
もっとも私の1歳の記念写真は男の子の格好してるし
幼児の頃、父は私にミニカーと二丁拳銃の玩具をあたえていたそうな。(^^;;;好きでした、こういう玩具。
その内「あんたって、こういう性格だから」「あんたはこれが似合うから」「あんた、これが好きでしょ」と
本人の嗜好や性格は成長するにつれて変化していくってのを私自身は感じていたにもかかわらず、
なぜか周りの大人たちと姉たちは決めつけてくれてたような気もします。
で、それをただ受け入れて成長していったら。
「自分」が、判らなくなりました。
何が好きで、何を考え、何を言葉にするのか。
どう世の中を見て、どう人のことをみて、どう受け止めているのか。
そんな事よりも
何が好きであればいいのか。
何を考え、何を言葉としてクチにするのがいいのか。
どう世の中を見ればいいのか。
どう人のことをみて、どう受け止めることがいいことなのか。
そんな「定義」だけで物事を受け止めなければならない。
その路線から外れてはならない。
それが「真面目」で「いいこと」だと思い込みました。
私は、私という人物を知らない人になってたんです。
今振り返ると、その路線がいきずまったのが
一番 肉体とマブイが分離しかけてた、
つまりよく幽体離脱しちゃってたのが10代後半から20代前半。
もしかしたら性格分裂状態だったかも。
かなり怒りっぽかったですよ~。
「生きることは戦うことだ」と本気で考えてました。
だって「定義」に当てはまらないことばかりですものね、生きるって。
そんな私を「自分」に最初に戻してくれたのが、主人でした。
10年ほどかけて私が「私」を取り戻していった結果。
実家はみんな異口同音にこういいました。
「あんたってこんな性格だったの?!(@o@)!!」
はい。
今の私は誰かに定義された自分ではありません。σ(^^)
自然体で生きること、
つまり自分がどう考え、どう受け止めるかは
自分の深い所から感じるままに。
「何も考えてないな。(・_・)」
って、よく主人につっこまれますけどね。^^;
さて、本題の「悔しいを認める」に戻って。
「その時の自分に、今の大人の自分から声をかけてあげてください。
なんと言いますか?」
この時、「大人の目線」で過去の自分に声をかけてあげるわけですが。
どういう言葉なら伝わるかな?
と考えるにあたっては、「その時の自分の気持ち」にフォーカスしてみてください。
分析する前に、まず、感じる。
「ああ、私、周りにこう理解してほしかったんだ。だからあんな態度をとったんだ」
と、感じることができたら、
どうすれば気持ちがおさまるのか、自分でわかるはずですよ~。
長い年月の間に殺し続けてきた自分の感情を、
生き返らせてくださいね。
ちなみに。
感情は、理屈で応えても
感情と感情のキャッチボールにはなりません~。
理屈ってつまりは、「こうしたら、こうなるよ」って未来を話すことですね。
感情は「今」にあるのに、今を無視して未来への理屈だけ語ったって、
いまの感情の解消にはならないっしょ?
この記事へのコメント
わたしも子供時代から男性として生きてきました。お人形遊びの楽しさが未だに解りません。でも、違うとしりました。性別超えた、同年代の異性の愛?があるのかも…と体験中です。怖くもありますが。それでもなんだか…わたしを取り戻し中です(^w^)
Posted by ピッピ at 2013年10月31日 08:52
○ピッピさん
このテーマ、実は「主体的に生きること」です。
自分という主体を自分で受け止めた時に、
性別という問題を超えているのならばそれを受け止めてもいいですよね。
でももしそれが「反発した自立」が原因ならば
どこかに違和感があるかと思います。
自然体に生きる、というのは
主体的に生きる、ということ。
このテーマ、実は「主体的に生きること」です。
自分という主体を自分で受け止めた時に、
性別という問題を超えているのならばそれを受け止めてもいいですよね。
でももしそれが「反発した自立」が原因ならば
どこかに違和感があるかと思います。
自然体に生きる、というのは
主体的に生きる、ということ。
Posted by 町田律子(pyo) at 2013年10月31日 19:10
途中でUPしちゃった。
「わたしを取り戻し中」いいですね~。^^
「わたしを取り戻し中」いいですね~。^^
Posted by 町田律子(pyo) at 2013年10月31日 19:11
迷惑コメントが入り始めたので「承認後受け付ける」にしています。すぐには表示されませんがお待ち下さい。