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2012年05月25日

男性性と女性性、相対評価と絶対評価

こんにちは、pyoです。

「海の幸山の幸」の第22話:小刀での合地のつぶやきに
反応したつぶやきをいただきました。

「…お前は俺が引き取らなければ、きっと俺を憎んで育ったかもしれないな。
オロチに言われるままに、俺を憎んで、いつか殺そうとおもってな。
だけど、俺を憎む以外は、笑って暮らせたかもしれないなー。
笑って暮らして、いつか俺を倒そうと剣の練習も頑張って、練習がうまくいったら笑ってさ、そうやってお前の日々を少年らしく生きることもできたんだ。…」


『…「俺を憎めてたらもっと笑えてたかもな」とぼやいてた時、頭ゴツンって殴ってやりたくなりました。ごめん合地(^^;)

「大馬鹿者。人を憎んで幸せになる者などいない。
それより、今の道を選んだその子を信じ見守るのも父親の役目だぞ。」って言ってやりたくなった…』


あはは、そりゃごもっとも。^^

で、そこで視点を終わらさずにですね、次に進んでみましょう。
「どうして合地がこう考えたのか?」です。

実はね、この考え方って結構一般的で身近にある考え方なんですよ~。

男性性と女性性、相対評価と絶対評価


合地は武神ですので「戦うこと」を前提とした「武」を学びながら成長してきました。

これは例えばスポーツでも同じで。

どこそこのチームより強いチームを作ろう、とか
ナントカの大会で優勝しよう、とか。

それは常にライバルがいる。
戦う相手がいる。

敵がいて、敵より強い自分(達)を作る
という、相対的な強さを求める考え方です。


合地がリーファンに対して「俺を憎んでいても、俺を知らなければ笑えた」と言ったのはこの視点です。


「敵」というのが仮想敵、つまり個人的には知り合いじゃなくて
頭で思い浮かべるだけの架空的な存在であれば
その敵という「目標」を相手に自分を鍛えることができたかもしれない。

ところが親しい間柄だったから、引き取って育ててくれた親だったから
リーファンにとって合地は「仮想敵」にならなかった。
つまり憎むことが出来なかった。

だけどオロチの思いを大事にしたいと思えば、憎まなければならない。


少年が自分を鍛える前にその心の問題に直面して
苦しんだ事に合地はフォーカスしたんですね。

目標を持って自分を鍛え高めていくプロセスにある喜びを
合地は少年時代に体験してきたから
その時代を持たなかったリーファンを哀れと思ったんです。


目標が「仮想敵」であるという考え方。
自分と相手がいて、その間の差を見つめるのは、相対的な考え方です。

この「相対的な判断」をするのが、男性性の特徴。


男性性/女性性という考え方は、男っぽいとか女っぽいというものではなくて
二元論の考え方ですね。

石井ゆかりさんの星座別の本に「二元論、三元論、四元論」の組み合わせである星座の性格の違いが書かれていて、とっても解りやすいです。

…さらに、12星座は「昼の星座・男性星座」と「夜の星座・女性星座」に分けられます。
「昼の星座・男性星座」は、論理性や切る力、ロゴスを扱います。「夜の星座・女性星座」は、感受性やまとめる力、エロスを扱います。
男性星座は「相対評価、成果主義、縦割り、スペシャリスト」などの世界です。
女性星座は「絶対評価、横断的、マネージャー、ジェネラリスト」的な世界を象徴しています。…




男性性に対して女性性は「絶対評価的な判断」をします。

敵やライバルのランクは関係なく
自分自身が求めるランクの強さをもつ自分だろうか、
という考え方ですね。

スポーツでいえば、自己ベストタイムに対してどうだ、という見方で訓練するようなもの。


リーリンはこの見方で己の武の訓練をしています。

自分を鍛えるために自分よりランクが高い強さを持つ合地と剣をかわす。
それを喜びと受け止めています。

剣を合わせるのを相対的に考えているために妻と剣を交わすのを躊躇する合地と
絶対的に考えて夫と剣を交わすのを喜ぶリーリンとの違い。

己に勝つのが目的のリーリンの訓練と
相手に勝つのが目的の合地の訓練。

どちらがいいとも悪いとも言えません。

目標である己が低ければリーリンは伸びないでしょうし
相手とする存在がみんな彼より弱ければ合地も伸びないでしょう。
でもその逆だとすると、どちらもかなり強くなるはずです。

おそらく人には両方必要なんじゃないかな~。



ところで仮想敵がいなくなると、相対的な闘い方というのは意味が無くなりますよね。
これ、いまの世界情勢をこれに当てはめると、見えて来る気がします。


沖縄にある米軍基地は、
仮想敵が存在するからこそ必要だと論じられているわけで。

仮想敵が存在しなければ、そもそも武力を持つ必要性はないんですよね。
敵がいると想定するから、それよりも高い武力や技術を持とうと考える。闘いに有利な場所を欲する。


「相対的な考え方」には相対という相手を必要とする、
つまり前提条件が必要となるんだそうです。


別の情景で見てみましょう。

・この夏は電力不足が想定される。
 だから大規模な発電ができる原子力発電所は必要である。

電力不足、という仮想敵(予想)が存在するわけですね。


「絶対的な考え方」には、基本的に揺るがない自分の目標、考え方があります。

・原子力発電というものはそれそのものが稼働すべきではない。

この考え方には原子力というものへの絶対評価があるわけです。
だから、電力不足が起ころうが何だろうが、原子力という力は使わないという選択となる。




そもそも評価の違う考え方をぶつけあっても
答えがでるわきゃないよな~・・・とたまに考えることがあります。

普天間基地の辺野古移設案、というのもそうですね。
沖縄県の意見は絶対評価、
国の意見は相対評価と感じます。だから平行線かな、っと。


もっと身近に考えてみましょうか。

「うちの子は従兄弟のA君より高い点数をとってきた♪」
「クラスの何番目だった」
これは相対評価ですね。

「前回のテストで20点だったけど、今回のテストでは22点だった。2点あがった、頑張ったね!」
これは絶対評価ですね。


「私はみんなに比べて感知度が少ない…というか全く無いから…」
これ、相対評価ですよね?


「私はいままで天使がいるって言われても信じられなかったけど
 最近、なんだかふっと天使に抱きしめられているような幸せを感じるの。
 違うかもしれない、想像かもしれないけど構わないわ、私はそう感じるんだもの。」
これが絶対評価ですね。


男性性の時代が終わり、女性性の時代が来る…って
つまりは相対評価より絶対評価の方に意識が変わってくる、ということかもと感じます。


そうそう、よく話す「完璧主義」もそうですね。

「完璧な状態」という仮想的な状態を基準に
「いつまでもそこに到達しない自分」をみているのが完璧主義。
相対評価ですね。


「きっと近所の***さんがこういうかも知れないから、大人しくしとかなきゃ」
「世間に顔向け出来ないわ~」
「世間がなんというか」

…相対評価ですね。
それ、苦しくない?


リラックスして喜びを感じられる自分。
これを基準に自分の生活を整えていく、自分の生活観を整えていくこと。

相対評価を捨てろとはいいません。
これもまた必要な視点でしょうし。

ただ絶対評価の視点も取り入れることで、
さまざまな事が楽になっていくと感じます。



例えば「色の識別が出来ない」マチャの場合。

「色の識別が出来るのが当たり前」だという前提条件をもってみると、
マチャは色の識別が出来ない、つまり能力が欠けている、
という評価が下されます。

世話係の女性がマチャを評価しているのもこの視点です。


「色の識別は別の方法でやればいい。
 妖精がみえて生命の樹が視えた、マチャはすばらしい目を持っている」
これはマチャの能力を見出したリーリンの絶対評価の視点です。

同じ「マチャの目の特徴」の評価が、完全に逆転しています。

視点の持ち方、評価の仕方を変えるだけで
物事の意味、解釈って完全に逆転できるんですよ~。

これも、リフレーミングの一種かもですね。(^^)

ハート



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Posted by 町田律子(pyo) at 14:05│Comments(10)解放への道
この記事へのコメント
わかりやすい。めちゃめちゃ良く分かった(^^)v
Posted by poponta at 2012年05月25日 15:15
●ぽんちゃん
嬉しい~。
Facebookでのシェアも、ありがとでした。
Posted by pyopyo at 2012年05月26日 00:45
相対評価と絶対評価の違い!

確かに考え方の違いが最近特に目についていたので、よくわかりました。

対象は我が家族なのですが。

人の目とか、誰かとか比べたがる我が兄弟の気持ちがわからなかったのですが、元の考え方が違っているのですね。

とってもわかりやすかったです。ありがとうございました(#^.^#)
Posted by はな at 2012年05月26日 16:45
●はなさん
相対評価と絶対評価で議論しても、
そもそもの基準が違うからスレ違いますよね。
そこを理解してみてみると、歩み寄れるところがみつかるかも~。
Posted by pyopyo at 2012年05月26日 21:35
つぶやきに反応してつぶやいた者です^^
お役に立てたようで良かったです♪♪

わたしの周りでもこういうくい違い、よく見かけてます。

新しい時代に突入して、両方のバランスが取りづらくなってるから、最近いろんな事故や事件も多発してるのかなとも思いました。
う~ん、やっぱり関係あります?
Posted by くこ at 2012年05月26日 22:02
●くこさん
つぶやきありがとうございました。^^
価値観もエネルギーも変換時期ですから
色んな事が起こりますよね。
Posted by pyopyo at 2012年05月26日 23:18
この記事をブログでリンク貼らせて頂きました~^^
トラックバック送ろうと思ったら、いくら探してもアメブロにはその機能が見つからず、(以前はあったはずなのですが)こちらのコメントから失礼致します。

ためになる記事、ありがとうございます♪
Posted by のんにゃん at 2012年08月02日 17:23
●のんにゃんさん
お知らせありがとうございます。

こちらの記事ですね。
http://ameblo.jp/dekodeko-kanon/entry-11318211761.html

ピアノとの向き合い方…これってプロの方でも同じところで悩んでいたりしますよ~。

誰かに対してライバル心を持つ、というのは
幼いわけじゃなくて、性質です。
その性質を超えてさらに高みに目指す時に強い葛藤があるわけですが、
その葛藤こそが自分を高めてくれるんですよ。

ひとつの視点を知り、また別の視点を知る。
こうしてさまざまな視点を知るということは
とっても豊かになることじゃないかな~。^^
Posted by pyo at 2012年08月02日 17:40
うひゃ〜
記事読んでいただいてしまいまして、非常に恐縮でございます(´▽`;)
思いっきり恥ずかしくなってきた〜

プロの方でも同じところで悩まれてる方がいらっしゃる…、そうなんですね。
幼いわけじゃなく性質って、そうか。。。そうなのかぁ…。
そんな風に見てくれる人がいるとは…。

まだ向き合い途中ですが、少しずつ解放できそうです^^

あの〜今更なんですが、実はアラハバキ神の解放の時、もしかしたら私は北のカムイの神様のお祭りの方に参加したんじゃないかって気が、ずっとしてました。
あの後、音楽に対して閉ざしてた部分のどこかが外れた感じがあって…。
解放前のその時期、湧きあがってきた気持ちがあって(ちょうど「カムイの喜びの歌」の記事がアップされた前日だったのですが)、その時カレンって言葉が浮かんで来ていました。
その時は全然繋がらなかったんですけど、何度も解放の記事読んでたら、カレンって…カムイのことだったのかもって思ったんです。
北の方は確か音楽のお祭りだったんですよね。
もしかしたら何かその影響があったのかな〜と最近思います。その時は、音楽のお祭りならそっちは参加したくないや、なんて思ってたんですけど

最近アラハバキ神の名前とか絵とかよく見かけるので、あの時期を振り返ってみました〜
長くなってすみません
Posted by のんにゃん at 2012年08月02日 22:20
●のんにゃんさん
なるほど~、そういえばカムイの祭りは音楽のお祭りでしたね。
賑やかでしたから両方に参加した方も多かったかも~。

音楽は音を楽しむ、そして祭りは祀り。
神々への音の語り…だそうですよ~。
Posted by pyo at 2012年08月03日 01:35
迷惑コメントが入り始めたので「承認後受け付ける」にしています。すぐには表示されませんがお待ち下さい。
 
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